命の恩人 安中市民の皆様に
私たちの家族の運命
を救って頂いた物語です・・・
本日は、少しばかり重たいとゆうか、まじめな話をします。
今から49年前の話になります。
私の妹が生まれるときの話です。
安中市の広瀬産婦人科医院で母親が長女を出産しました。
昭和41年3月12日午後1時15分の出産でした。
「髪の毛が真っ黒の女の子だ~」と、その時は母親の意識ははっきりしておりました。
が・・・その後、出血が止まらずに出産1時間後から意識がなくなりました。
「頭が痛い」と母親は言っておりましたが、先生は出産直後、往診で外に出てしまい不在でした。
その後、先生が急きょ戻り、あらゆる止血方法を試してみたが、出血は止まらず。
「眠ったらダメだ」と言われて、ほっぺたを叩かれたが・・・
冷たいところに引きずり込まれてしまい、目を覚ますことはできなかった
と、母親は振り返ります。
輸血が必要
同じ血液の、同医院 看護婦見習いの【吉本みどり】さん(16歳)から採血するとともに
知人の、ラジオ商 伊勢崎八郎さん(58歳)にB型の人を探してくれるように頼んだ。
伊勢崎さん方では、さっそくB型の二男 進さん(22歳)と四男 実さん(17歳)が輸血し
この話を聴いた、市議の白石一郎さん(45歳)が近所を1件ずつ訪ねてB型の人を捜し歩いた。
しかし、母親の容態は悪化するばかり、血圧も70まで下がり、
危篤状態が続いた。
善意の人々が集まる
見かねた、お爺さんの重太郎さんは、同夜10時ごろ、安中署と安中消防署に事情を訴えた。
同本部では、直ちに有線放送に連絡、これを一般家庭に流して市民に協力を呼びかけた。
放送を流すと同時に、3人を交換室に残して、5人が本部車、救急車に分乗して、
同医院に駆け付けB型の同市、下磯部 岡村久さん(19歳)が輸血した。
放送を聞きつけた提供者60人余りが、同医院に集まった。
祖父の重太郎さんは、父親が不在の出来事と、自分の娘の危篤に
「よわった、よわった、と廊下をうろうろしていたそうです。
私の父親は、仕事で和歌山県におり、
祖父 重太郎さんの「ハハキトク スグカエレ」の電報で
翌日の13日、午後に駆け付けた。
父親は「もし、母親が死んでいたら、実家の北海道釧路に私と、生まれたばかりの妹を連れて帰る」
と決めていたそうである。
「丸一日かけて、鈍行列車で帰ってくる道のりが長かった」と語っていました
皆さんの親切なご協力により、輸血が出来た母親は翌日未明に意識を取り戻した。
意識を失って12時間ぶりです。
「目が覚めると、親戚の人達がたくさん集まってビックリした」と母親は言っていた。
容態が安定した姿を見た院長先生は、安心して隣の病室でぐっすり寝込んだそうです。
夜通し、つきっきりで看病してくれていた福田節夫院長先生
安中市内の、約60人の善意の協力者のお蔭で母親は助けられました。
隣人愛は素晴らしい
恩返しをさせてください
実家の片づけをしていたところ当時の新聞記事が出てきたので分かった事実です。
私が、奥さん子供と巡り合えて幸せに安中で暮らせるのも、母親が生きていたからです。
その時に産まれた妹も、高崎市内で所帯を持ち、子供が3人、孫が一人おります。
この恩返しをしたくてブログを書きました。
吉本みどり さま
伊勢崎 進 さま
伊勢崎 実 さま
御三人の住所は把握できましてお礼を述べることができました。
しかし・・・
岡村 久 さま(下磯部)
白石一郎 さま(市議)
平成41年3月12日に広瀬産婦人科に駆け付けていただいた皆様が不明です。
どなたか心当たりある方がおりましたらご一報ください。
いまさらですが、49年前の恩返しをさせて頂きたく
皆さまの情報提供をお願い致します。
見えないところに 根があって
その根のお蔭で 花が咲く
色々な方の、見えないところでの恩を受けて
生かされている自分
皆さまとのよきご縁に・・・合掌
ブログ担当 天夢天夢